世間と向き合って生きていく方法と映画「クワイエット・プレイス」

世間と向き合って生きていく方法と映画「クワイエット・プレイス」

MOVIE

自分はどう生きるか、というのは死ぬまで人間につきまとう正解のない課題で、答えをひねり出したところで正誤を確かめることはできないっすよね。

仏教に「人、世間の愛欲の中に在りて、独り生まれ、独り死し、独り去り、独り来る」という言葉があるけれど、実際は生死において孤独であっても一人きりであることは稀なわけで。

我々はみんな母親から産まれ、社会の中で生かされ、一人きりで死んだとしても誰かが抜け殻を片付けてくれるようにできてるじゃないですか。

自分は最高に普通だと思いこんでいたぼくにとって、常に否定を突きつける世間という集合体は恐ろしいばかりですが、それでもぼくは一人では生きられず、世間という仕組みに甘えながら「火垂るの墓」みたいに孤独に甘えているのが現状です。

ここからぼくは、どう生きるのか

ただ、清太にとっての節子みたいに、ぼくには妻がいるわけで、本当の意味で孤独ではないというのが唯一の救いというか、ただ生きるのでも良かったはずのぼくが理由を持って毎日を過ごす糧があるというのは幸福だなとも思っています。

ここからぼくは、どう生きるのか。

子どものようにエゴイスティックに生きられればそれが最高に幸福であると分かってはいても、人生を重ねるとそれだけ自分の中の破りたくないルールを増やしてしまう性分が災いして、自分にも他人にも妙なところで厳しくなってしまっているのがつらいです。

まずはおおらかに世間という集合体との折り合いをつけることが幸せへの近道なのかなとも思うのですが、それに反抗する戦闘民族的な血を母から受け継いでいるのがまた苦しく、しかしながら戦闘民族ですから、やるならやってやんぞ! みたいな妙な気概がふつふつしてたりもして……。

それにまかせて戦う人生はある意味エゴイスティックであり幸福なのかもしれないなと思いつつも、誰かに迷惑をかけたくはないわけで。

でも、ただ世間から逃げるだけでなく、守るために戦うのなら、それはそれで美しくいられるのかなとも思うのです。

やる時はやるぞっていう気持ち大事! だって腹立つこと多いじゃないですか……。なんかこう、イライラするんですよ最近! これってもしかして電車通勤が原因なんじゃなかろうか……。絶対そうだ……。電車って人の心を腐らせる悪魔の乗り物なのでは……。あの狭い空間に他人とすし詰めにされ続けたら病むって絶対。パーソナルスペースとか侵されまくりやんけ! あー、しんど!!

……というようなことを「クワイエット・プレイス」を観て思ったのでした。

人間が親になり、育て、戦う物語

クワイエット・プレイス」という作品は、恐怖という感情を触媒にしながら、そこに向き合い人間らしく生きようとした家族の物語でした。

大きな音を聞きつけて人間を襲うクリーチャーに脅かされる世界で、「決して音を立ててはいけない」というルールを守りながらも、主人公家族はただ生き残ることだけを目的としていません。

襲われてしまった時のことを想定して備えつつも、川で捕まえた魚を調理して家族で食事をしたり、その魚の捕り方を息子に教えたり、聴覚に障害のある娘のために父親が自家製の補聴器をこしらえたり、怯えて隠れながら過ごしたくないという強い意思を感じられるのが印象的でした。

冷たいことを言うようですが、音を立ててはいけない世界において、意思疎通が必要なうえ子どもを抱えた“家族”という集団で生活すること自体がリスクのはずです。

それでも彼らは逃げながら戦うことを選びます。そして……。

……結末はもちろん伏せますが、そこに人間の生きる姿そのものを見たような気がしました。

クリーチャーは社会に少なからず存在する“悪”そのもののメタファー。恐ろしい社会と戦いながら、人間が子を育て、親になり、守り戦う物語です。

電車で戦うおじさんになるのはやばいけど、いざという時に家族の前に立って守れるおじさんはきっとかっこいい。

ラストのカタルシスが気持ち良いのもあって、めちゃくちゃ楽しめました。200 点。最高に最高!!